2005年05月08日

好きになった女(ひと)3

中村紘子さん

東京都出身。1959年日本音楽コンクール第1位特賞。1965年ショパン国際コンクール第4位。日本を代表するピアニストとして演奏活動はもとより、若手の指導育成にも努める。またエッセイストでもある。
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ボクは音楽はワカリマセン。
音痴ではないのですが、音感が無い。楽譜も読めないし、CDもめったに買いません。
音楽を聴くことはまれです。
そんなボクが中村さんを知ったのは、旦那さんが庄司薫さんだから。高校2年の秋、大好きな小説家、庄司さんの奥様が有名なピアニストだと聞いて、レコード屋(懐かしい響きですね)に行き、ジャケットを見て
「なんてキレイで上品な人なんだろう」
と面喰いなボクはその場でそのレコード、ムソルグスキー : 組曲「展覧会の絵」を購入したのでした。
家に帰り、早速聞いてみました。
びっくりした。めったに聞いたことは無いのだけれども、それでも素晴らしいものだと分かりました。有名な「プロムナード」、かわいらしく生命あふれた「卵のからをつけたひなの踊り」 、力強い「キエフの大門」などなど。今でもはっきりと聞こえてくるようです。

後にテレビに出演されているのを何度か見ましたが、ジャケットで見たとおりの美しさ、そしてやさしい語り。
今度の休日には久々に中村さんのショパンを聞こうと思います。

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2005年05月06日

好きになった女(ひと)2

イレーヌ・カーン・ダンヴェール 1872年〜?
「イレーヌ・カーン・ダンヴェル嬢の肖像」ピエール・オーギュスト・ルノアール画(1880年)

Irene Cahen d'Anvers ルノアールの後援者の一人であった、パリのユダヤ系銀行家、ルイ・カーン・ダンヴェルス氏の末娘。この絵の描かれた当時は8歳。後にサンピエリ伯爵夫人となる。
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まるで人形のような透き通った肌と流れるような美しい赤毛。
中学校1年生のときに知り合いの家のトイレに貼ってあったカレンダを見て、心を打たれました。
ルノアールは日本でも人気のある画家ですが、この絵はその中でも特に人気が高く、たくさんの人がネット上で壁紙を提供しています。
それにしても当時8歳。中学生だったボクにはもう少し年上に、10〜12歳くらいに見えましたね。

その後の彼女のことも調べてみたのですが、まだわかりません。
1872年生まれということはナチスがフランスを占領したときにも生きていた可能性があり、ユダヤ人であった彼女のその後が非常に気になります。


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2005年05月03日

好きになった女(ひと)1

ここでは古今東西、我が人生で好きになった女性を書き連ねていきます。

北政所(寧々)  1549年〜1624年

豊臣秀吉の正妻。寧々(ねね)、お寧々は愛称、通称で、正しくは禰子(ねいし、ねいこ)。朝廷より豊臣吉子の名前をもらった。


古今東西、いきなり古い女性を出してしまいました。ボクが中学二年生のとき好きになった女性であります。「本当かよ〜?」なんて声が聞こえてきますが、本当です。

彼女は14歳(数え年)で25歳の木下藤吉郎(秀吉)と結婚しました。当時のボクの年齢と大差ありません。昔は早くから婚姻するとはいえ、ちょっとビックリです。

中学生だったボクは山岡荘八さんや司馬遼太郎さん、吉川英冶さんの歴史小説を読み漁ったんですが、どなたも「太閤記」を書いてらっしゃるんですね。歴史小説家にとって「太閤記」は共通課題のような気がします。それだけ魅力的なのでしょうね。
で、どの「太閤記」を見ても寧々はよく描かれている。秀吉が天下を取れたのは寧々が家内をよく治めていたからだ、というんですね。まさに良妻。

それだけじゃあないんです。彼女はかわいらしいところもある。
秀吉が長浜城主に出世して、側室を持つんですね。これはまあ当時としては当たり前のことで、武士にとって個人よりも家が大事。その家を継ぐ子供をもうけることも大切な役目でしたから。その上寧々には生涯ついに子供が生まれませんでした。だから余計に、秀吉はあせったでしょうね。生涯、たくさんの側室を持った。
この長浜城主時代、秀吉は南殿、名前は分かりませんけれども、たぶん館の位置か名前を取って、南殿と呼ばれた女性を側室に迎え、子供を生ませるんですね。これが寧々には気に入らなかった。理屈では分かっているのだけれども、感情が収まらなかったのでしょう。安土城にいる信長に訴えるわけです。自分の旦那の行状を。
安土城ができたのは1576年。このとき寧々はまだ28歳(数え年)ですから、いくら当時ではとうがたった年齢といえ、やきもちを焼くのも無理ないかな、と思えます。

その時信長が寧々に宛てた手紙が今でも残っています。

(前略)
その方も前にあった時に比べて倍くらい美しくなっている。
藤吉郎秀吉がなにか言っているが、言語道断。
どこを訪ね歩いても、あの禿ねずみにはその方のような女性は見つからない。
これから先は陽気にふるまい、奥方らしく心を大きく持ってやきもちなどは妬かないように。
夫を立てるのが女の役だから、慎み深く世話をしてやるように。
この手紙は羽柴にも見せること。かしこ


あの鬼神、信長の優しい一面を伝える貴重な手紙です。
若い頃はサルと呼ばれていた秀吉も、中年になってハゲねずみ扱い。
一方で寧々の美しさをほめ、他方で「奥方らしく」と自制を説いている。じつにほほえましいですね。ここから伝わる寧々の有様も実にかわいらしい。そんな寧々だから信長の優しい面も引き出せたのでしょうか。

長浜城主時代生まれた秀吉の子供はわずか七歳で世を去ります。
秀吉はこの子を非常に可愛がっていたようで、後に主君信長の四男を養子にもらい、死んだこと同じ秀勝という名をつけます。この秀勝も若くして死ぬのですが、その後も姉からもらった養子にまた秀勝と名づけます(有名な秀次の実の弟です)。よほど愛着があったのでしょうね。

寧々はその後、やきもちを焼くことなく、次々に来る養子、一族から来る養子も、人質として預かる養子も分け隔てなく接したそうです。
徳川家康の次男、秀康も若くして秀吉の養子(人質)になりましたが、終生この養父母を慕っていたそうです。
posted by タレイラン at 01:27| Comment(6) | TrackBack(0) | 好き | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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